Theme1
古文はオワコンではない。
今、そして未来につなげるために。
私が教師を志したのは高校2年生の時。当時「売りたくないモノを売り、良いと思わないモノを良いと言う」という漠然としたサラリーマン像があり、自分はそれにはなれないと感じたのが大きな理由です。また人並みの反抗期もありました。大人から「失敗するからやめておきなさい」と言われても「俺は成功するかもしれへんやん!」と、いろいろなことに挑戦していた時期。しかし一方で、一人でできることには限界があるという自覚もありました。だから自分以外の誰かが行動を起こしたり考えたりするきっかけを与えられる仕事に就こうと思ったのも理由のひとつです。
私を形成する要素として欠かせないのが音楽。高校、大学とずっとバンド活動をしていましたが、その時はあくまで趣味の領域でした。真剣に音楽と向き合ったのは社会人になってから。大学を卒業した後に約3年間、大阪の学校に勤務します。しかしそこでは人間としての引き出しや価値観の乏しさを痛感し、生徒から「先生」と呼ばれることを恐怖とすら感じていました。それを克服するために、環境を変えます。上京して学習塾と学校の非常勤講師として働きながら、改めて音楽に熱中。学校というコミュニティから出たことやバンド活動を通してさまざまな経験が得られ、また新しい自分も発見できました。自己表現の手段でもあるとともに、人として成長させてくれたのが音楽であることは間違いありませんね。
私は国語の中でも主に古典の授業を担当しています。学生時代に学んだ古文という科目を思い返すと、文法や仮名遣いを覚えて、最終的には受験に、という人も多いでしょう。そういった教科書に載っている知識ももちろん大切です。ただ私としては、作品から歴史的な背景や世界観、昔と今の価値観の違いを感じてほしいと思っています。世の中でも一部否定的に語られているように、古文で扱う言葉が現代の生活で使われることはありません。しかしそれに触れることで、今使っている言葉や当たり前に根付いている考え方の土台となる部分を深く理解することができます。そしてそれらはこれからも絶えず変化するもの。つまり過去を知ることは今、そして未来を考えることにつながります。だから古文を学ぶということは、豊かに生きるための材料になると思いますよ。
古文は豊かに生きるための材料。
過去を知ることは
今、そして未来を考えること。
Theme2
より自由な発想と行動を。
受験のためではなく、自分のために。
探究の担当に立候補したのは、これまでとは別の切り口から教師としての可能性を探りたいという思いからでした。生徒たちに気がついてほしいことや、考えてほしいことが伝えられるのであれば、国語という科目にとらわれる必要はありません。しかし実際に生徒たちとともに探究の時間を過ごしてみると、私が気付かされることもたくさんありました。例えば「生徒自身がもっと自由に考えて、実践してもいいんだ」ということ。そう思えたのは、今年は中学生の探究を担当していたからで、もし高校3年生を見ていたら、そんな余裕はなかったかもしれません。ただ探究で得られる姿勢がしっかりと根付けば、国語や英語、数学といった科目も「受験のため」ではなく「自分が思い描く将来のため」に必要なものと捉えられます。その結果、より自由な進路選択につながるのではないでしょうか。
授業を行う上で、近年特に意識しているのは、生徒が発言しやすい空気感をつくることや、間違っても咎められないと理解してもらうこと。そうするに至ったのは、彼ら彼女たちが自分の意見を出すことを怖がっていたり、せっかく人とは違う意見を持っているにもかかわらず多数派に逃げたりすることが多いと感じていたからです。やはり「学校では正しい発言をしなければならない」とか「間違えてはいけない」という意識があるんでしょうね。でも実際はむしろ逆。正しいことを言うより、なぜ間違えたのかを考える方が何倍も楽しいんですから。これからも臆することなく発言できる環境を模索し続けたいですね。
今感じている課題は、集団に向けた教育に関してです。この学校の教師は生徒一人ひとりに対するケアや教育は得意と言っていいでしょう。それはこれからも大切にするべきです。しかしほとんど場合、人は一人では生きていけません。もっとも近いところには家族がいて、より広く捉えれば地域社会の一員です。さらに友人関係だってあるし、就職をしたら会社という組織に属します。そう考えたときに、集団の中での個人のあり方を教えられなければ、生徒の未来に課題を残すことになってしまう。ただこの問題に対して、学校側が具体的な方法論を提示する必要はありません。各々の先生がちゃんとした価値観で集団と向き合えれば自然と解決されることですから。そういった態度も、我々教師に求められるものだと思います。