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“偉大なる勘違い”から、
全国最年少民間人校長、誕生。
僕が大阪の公立高校である箕面高校の教員となったのは2010年。そして4年後となる2014年の4月に、民間人校長であり、全国最年少校長として、日野田先生が箕面高校に赴任してきました。
そうでしたね。
さらにその1年後となる2015年に髙木先生が……
これはもう口に出すのも恥ずかしいですけど『スーパーイングリッシュティーチャー』として……(笑)
そうそう(笑)。そこから日野田先生の先導もあって、公立高校としては革新的と言えるさまざまな取り組みを推進し、海外の大学へと進学した生徒を多数輩出したことで、たくさんメディアにも取り上げられました。今日は3人であの4年間、実際の現場では何が起こっていて、その中にいた我々がどんなことを思っていたのかを振り返りたいなと。
書けないこと、たくさんありそう(笑)
外には出せないことがいっぱいありましたからね(笑)
まあそれは置いといて(笑)、まずは2014年に箕面高校に来るまでの日野田先生の経歴を改めて簡単に振り返りましょうか。
僕は10歳まで日本にいて、そこから3年ほどタイで過ごしました。日本に戻った後は、生徒のほとんどが帰国子女である『同志社国際高等学校』に通います。
その後、関西では圧倒的なシェアを誇る学習塾である『馬渕教室』で日本史の先生をやるんですよね? なぜ英語ではなく日本史だったんですか??
それは日本史が一番嫌いな科目だったという理由ですね。嫌いな方が教えるのは上手くなりますから。僕は数学が一番得意なんですけど、得意な教科って教えられないでしょ?
なるほど。馬渕教室でも圧倒的な人気講師となり、同塾の脅威的な業績アップに貢献して、その後、学校の立ち上げに参画するんですよね?
そうです。奈良学園(現:奈良学園登美ヶ丘中学校・高等学校)という私立の学校をつくるお手伝いをしました。やったのは教育の理念や方針をつくるところから、法的な整備や施設の建築など、学校をつくるために必要なすべてに携わった感じです。
立ち上げの後、その学校で引き続き日本史を教えていたと。そこからどういった経緯で民間人校長に?
詳しくは言えませんが、その私立の学校でいろいろと思うことがあり「私立で教えるのにも限界があるな」と感じていたタイミングで、周りの人から「大阪の公立高校で民間人校長を募集しているから、やってみたら?」とすごく推されたんです。
それが何歳の時ですか?
校長になったのは36歳の時かな。
いまの僕と同い年ですね。僕だったら絶対にイヤだって言い切れますね(笑)
僕もイヤでしたよ(笑)。最後まで悩みました。ただ当時、色々と調べていく中で、僕と同じ世代である30代で校長をしている人がほぼゼロだということが分かります。それに当時40代の教員が極端に少ないことも分かって、このままいくと校長を含めた学校の管理職が足りなくなることは明確だったんです。
なるほど。
でもだからと言って、その原因を他人のせいにするのは間違っていると感じました。そこで本当のことを言うと、私は一生現場にいたかったんですが「困っている状況があるのであれば、誰かが重荷を背負うべき」と考えて、その責任を果たすのが教育に関わるものの責務だと考えたんです。
それで民間人校長に手を挙げたと。
そう。それと、みんながあまりに「やってみたら?」って言うものだから「俺、できるかも!」なんて、“偉大なる勘違い”をしたんでしょうね(笑)
あと僕は「進学塾」「私立」と経歴を積んできたので、次に「公立」で教えれば、すべての教育セクションに関わったことになって、日本で一番教育のことを分かっている人間になれると思ったんです。そういう立場じゃないと、日本の教育は変えられないと思ったので。
もともと「日本の教育を変えたい」といった大きな志を持っていたってことですか?
う〜ん……、というよりは、やはり多くの日本人が資本主義という名の檻の中に閉じ込められて、そのまま“犬”になっていく社会ですからね。その状況を打破するために、いろいろとインスパイアされた人間を大量生産しなければいけないとは思っていましたね。たくさんの生徒たちをガンダムに乗れるレベルの“ニュータイプの人間”に覚醒させてあげたいなと(笑)。そういう思いはありました。
でも公立の学校は、私立よりも自分がやりたいことはできないような気がしますが……。
うん。みんながそう思っていたから、逆に公立に行ったっていう部分もあります。さらに当時の世論として「民間人校長は無理だ」という論調もあったので、だからこそ「じゃあ僕が」って。
箕面高校には希望して赴任してきたわけではないんですよね?
そうです。僕は大阪府が決めたところに行くだけで、そこの決定権はありません。本当は貧困地域にある学校か、もしくはいわゆる偏差値的に“底辺校”に行きたかったんです。なぜなら「そういう高校からハーバードに合格させました」くらいのインパクトを与えたかったんで。
たしかにそれができるとすごいですよね。
もともと僕の中には「貧富の格差を教育の格差にしてはいけない」っていう確固たる思いがあります。というのも僕は東南アジアで育ったので、その弊害を見ているんでね。日本においてもそれに似た社会の硬直化が見られて、今ってけっこうヤバい状態です。それを打破するために、本当はさっき言ったような学校に行きたかったんですが、結果的には2014年に、いわゆる“中堅校”である箕面高校に赴任することとなりました。
多くの日本人が資本主義という名の
檻の中に閉じ込められて、
そのまま犬になっていく社会。
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“革命前夜”は、
じわじわと、グラデーションで。
日野田先生が来た時のことはよく覚えていますよ。ちょうど僕が「首席」っていう、教頭と先生の間に位置する中間管理職のようなポジションに就いたタイミングだったこともあって、すべてが新鮮でしたね。
僕が赴任した時に、3月までいた校長と教頭、そして事務局長の全員が一度に別の学校に転任されましたよね。普通はこの三役のうち、1人は必ず残るはずだけど。引き継ぎもないし、僕もはじめての公立高校だし、訳の分からないままスタートでした。
実は日野田先生の前の校長先生も民間人校長だったんですよね。だから僕はそれに慣れていたはずなんですけど、にもかかわらず日野田先生は最初から発信することのすべてがめちゃくちゃ新しくて、けっこうパニックになりました。いきなり『学校で守るべきルール』みたいなものを貼り出しましたよね。生徒も先生も両方が守るべきものとして。あれってどんな内容でしたっけ?
普通のことですよ。「人のことを否定しない」とか「必ず対案を出す」とか。あとは「人の話はちゃんと聞く」「感謝を伝える」といった、先生も生徒も守るべき、基本的なルールです。そういう当たり前のことって、日本人はもともと得意だったはずなのに、いつの間にかできなくなっているから。それを再確認しただけです。だからあの頃は、先生たちにもよく「最新鋭のことをやっているふりをして、原点に戻りましょう」と伝えていました。
民間人校長として箕面高校に赴任した際に、日野田先生にはどういったミッションが大阪府から課せられていたのかを改めて教えてください。
当時、『国際科』という冠がついている公立高校が箕面高校を含めて大阪府には10校あったんですけど、どれも胸を張って『国際科』と言えるような実績が出ていないという状況があったみたいです。それこそ、『英検2級』をとれる生徒が1学年に2〜3人しかいないといった問題ですね。そこで国際科に捻出されている特別予算に対する説明ができる状態にしてくれと。
加えて当時は『骨太の英語力養成事業』という名目でも、特別に予算がついていましたよね。僕はその事業の中で派遣されたわけですけど。
そうですね。まあそれに関しては、サラリーマンのお小遣いくらいの額だったけど(笑)。つまり僕は『国際科』につけられた予算に見合った結果を出す、もっと具体的にいうと「国際科の英語力を高める」という大義名分の下に、箕面高校に着任したわけです。でも正直に言って、僕もそうだし、1年後に赴任してくる髙木先生もそうだと思いますが、自分は英語は話せるけど、学校の授業においては「英語ができるかどうかなんて、どうでもいい」って思っていて(笑)
はい。英語はあくまでツールでしかないですからね。
そうそう。個人にあったマインドセットを構築したり、社会に貢献したりするために、もちろん英語ができた方がいいけど、別にできなくたっていい。そう考えていました。
そういう背景もあって、当時は首席であり、英語教師でもあった僕と日野田先生はたくさんのプロジェクトを一緒に進めることになりましたよね。
そうですね。池谷先生が実働部隊のボスとして動いてくれました。根回しとか、各所の調整とか。
日野田先生は『一点突破・全面展開』っていう合言葉のもとにいろいろと新しい動きを起こしていくんです。例えば外部の民間企業と連携して英語の教育プログラムをつくったり。公立高校ではそんなことって普通はありえないんですよね。でもそんなありえないことを、どんどん実際の行動に移していくんです。
それらは実はまったく難しいことではないですからね。
でも僕はぜんぜんその動きについていけなくて、僕は最初の1年は、ずっと怖い顔をしていたと思いますよ(笑)
そうだったの? それは申し訳ないな(笑)
「日野田先生について行かないとやばい!」って思うのと同時に「この人についていけば、何か新しいことが起こるかもしれない!!」という直感みたいなものもあって、外部の人と会う時にはいつもついていきました。名刺交換をしたのも、30歳を超えたその時がはじめてだったくらいです。
当時の箕面高校は教師の平均年齢が54歳。全国の校長先生の平均年齢が52歳なのに、それを超えているっていう(笑)。しかも「改革」という言葉に日本全体が疲れてしまっていて、何かを無理に変えることが難しい状態でした。そんな中で新しいことを急激にやってもハレーションを起こすだけ。だから池谷くんには、いろいろと調整をしてもらったと思います。
そうでしたね。年配の先生たちにも立場的に上から話さないといけないこともけっこうあって、余計に怖い顔になっていたんだと思います。ほんと、色々な先生がいましたから。
一般的に言って、公立高校の先生の中で、優秀な人は偏差値の一番上と一番下に赴任する傾向があります。上は当然ながら生徒たちが賢いから、きちんとした指導ができないといけない。下は下で生徒たちの扱いが難しいから、それができる人じゃないといけません。箕面高校をはじめとした中堅校には本当にいろいろな先生が集まって来るので、方向性が定まりにくくなる傾向があって、大変でしたよね。
職員会議も、日野田先生が来たばかりの頃は、ケンカばっかりでしたよね……。
そうそう。「校長に問う!」「それはいかがなものか‼︎」とか言われて(笑)。一人ひとりはいい先生なのに、集団になるとケンカが始まっちゃう。だから新しいことを始めて、それを前に進めるためには、一人ずつ話を聞いて、思っていることや困っていることを聞いていかないといけない。そうやって教師のマインドセットを変えるためのワークショップや研修もやりながら、じわじわとグラデーションで改革を進めていきました。割と“強権を振るう”イメージを持たれますけど、実際はまったくの逆。今までいた年配の先生たちと接する時は、下から、下から、ですよ(笑)
自分にあったマインドセットを構築したり、
社会に貢献したりするために、
英語ができた方がいいけど、できなくてもいい。
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スーパーイングリッシュティーチャー登場。
でも大切なのは、英語じゃない??
その中でいちばん新しかったのは、やはり外部の民間企業とのコラボレーションだったかなと。
そうですね。でも予算はさっきも言った通り、サラリーマンのお小遣いレベルだから(笑)、通常の価格は払えない。そこで「共同開発事業」という名目にして、「御社にとっても公立の学校と仕事をしたという前例ができるでしょ?」っていう交渉をすることで、実現させました。日本では民間の企業が公の機関と仕事をするのが難しいので、そこをエサにしたカタチですね。
今さらですけど、あれって法的に大丈夫だったんですか?
なんの問題もないんですよ。そもそも教育関係者の中に、コンプライアンスのマネジメントをできる人って、なかなかいない。でも僕は私立高校をつくる経験をしているので、どこまでが合法で、どこからが違法かがすべて分かっています。だから本当は公立高校でもできるんですよね。そうやって法的な問題や予算を考えながら、プロジェクトに最適な座組を用意するのが僕は得意なんです。
その後も1社だけでなく、多くの民間企業とコラボレーションしましたよね。
そうでしたね。ただ通常の英語の授業にそれらのプログラムを取り入れると、もともと学校にいた英語教師がハレーションを起こしたり、また「受験に使えるの?」なんて声も出てきたりするので、やり方としては『エクストラ・カリキュラム』として、一部の生徒にだけやるという進め方をとりました。そうすると、そこに参加していた生徒の中に僕の分身のような存在がどんどん出てきて、学校のあちこちで、チェ・ゲバラ的に革命が起きてくる(笑)
つまり、生徒が伸びていって、その結果として生徒から先生に突き上げが起こるっていうことですよね(笑)
そうです。それと同時に生徒たちにはフィードバックの訓練もさせるので、「先生の授業って、くだらないですね」って平気で言うようになります。ただしそれは、決して先生をいじめたいわけではなくて、ただただ自分を伸ばすために、もっといい授業をやってほしいだけ。学校全体を変えるには、先生を変えるより、生徒を変えた方が早いことが僕には分かっていました。
もちろん、そういった生徒たちからの厳しい声に反応しない先生もいます。そういう先生たちは、自分の授業を生徒がどう受け取ろうが、淡々と自分の中で定まったものを出して帰るだけ。でもそうではなくて、ほとんどの先生にとっては「生徒に響かない」っていうのはすごく凹むことなんですよね。
しかも我々教師からすると、それって実際に授業をやっていたら、一瞬で分かりますしね。「あ、今日の俺の授業はダメだわ」って。
それほど凹むことってないよね。
そうやって生徒から厳しい反応が出た時に、先生がふてくされるのではなくて、前向きに努力をするように設計するのも僕の腕の見せ所です。例えば生徒たちの成長に合わせて、先生たちにも小さなワークショップを継続的にやりました。僕は“シミュレーションオタク”なので、何か新しいことを始める時は、樹形図を書きながら、「もしこうなったら、こうする」「逆にこうきたら、こうする」みたいな感じで、数万パターンを考えます。それだけ考えていれば、どこにもハマらないことはありません。そうやってどんな状況にも対応できるようにするのが我々マネージャーの仕事の根幹だと思います。
そうやって授業に新しい手法を取り入れていくことで、何より生徒たちの姿勢が変わっていきました。どこに人と金、モノを投入するかを考えて、一点突破すれば、当然ながらちゃんと変わるんですよね。あれはもう「劇的」と言っていい変化でした。
そうでしたね。最初にプログラムに参加してくれた生徒たちが、他の生徒たちも巻き込んでくれて。
その変化っていうのは、単に「英語力が上がった」っていうレベルを超えたもの。正直に言って、英語ができるようになるかどうかなんかは、どうでもいいんですよね。それはやりたい生徒は勝手にやるので。
重要なのはもっと前のところの考え方ですよね。
そうなんです。生徒たちが「自分は何をやりたいのか」っていう部分にこだわるようになって、それをこちらに要求してくるようになりました。その結果、“生徒と先生”という関係を超えて、人として付き合えるようになったというか。生徒と対等に話ができるようになったのは、あの時がはじめてでしたね。
僕が大事にしていることをひと言でいうと「Who are you?」なんです。「そもそもあなたは誰?」っていう。それを他の人に説明して、さらに達成するためのツールとして勉強をする。それだけです。勉強自体は目的ではありません。自分のパーパスを知るというか、天命を知るというか。それを学校の教育の中でやりたいんです。だから今も生徒たちに言いますよ。「仮にハーバードに合格したとしても、お寿司が握りたいならそうしたらいい」って。
そういう考え方を植え付けるためにも、国際科の80人の中で、さらに希望者だけを募って、外部の企業とコラボをしながら「英語力を上げる」っていうよりは、「英語を使って探究的な取り組みをしよう」といったようなプロジェクトを進めましたよね。
そうそう。あの時の授業って、外向けには英語のプログラムってことになっていましたが、中身としては「どのように英語を教えるか」ではなく「どういうマインドセットにするか」とか「この授業の目的は何か。それを達成するためには、どんなシンキングツールが必要か」といったことを考えていました。そのフレームワークさえ決まれば、あとは英語だろうがなんだろうが、勝手にどうぞっていう話だから。
そうやって外部企業と探究型の英語プログラムをつくっていく中で、生徒たちが変わっていく姿を目の当たりにして、僕自身も「やっぱり民間企業がつくるプログラムってすごいな」と思っていたんです。そこでやっと登場するのが髙木先生です。
はい。日野田先生から1年遅れて、2015年に例の『骨太の英語力養成事業』の教師として箕面高校に赴任しました。大阪府の方から「海外の大学に就学できるレベルまで英語力を上げてほしい」って言われて。僕はそれを聞いて「海外の大学って、英語力をつければ行けるようになるものなのかな?」って疑問に思っていたんですけど。そして赴任する直前に、校長先生に挨拶に行くという名目で、日野田先生を訪ねましたよね。
うん。2人で話す中で「でも本当に大切なのは英語じゃないよね」って結論になりましたね。
そうなんです。そこで日野田先生の考え方にはすごく共感できました。
普通はあり得ないですけどね。スーパーイングリッシュティーチャーとしてやってきた先生に「英語じゃない」って言う校長先生と、それに共感するスーパーイングリッシュティーチャーっていう(笑)
でも海外で過ごしてきた僕らからするとそれが普通なんです。僕は社会の先生で、髙木先生は本当は数学の先生。2人とも英語はできるけど、それは後からなんとでもなると思っていたから。そもそもマインドマップも書けない子どもに対して英語だけ教えても役に立たないんですよね。だから「半年間は日本語でいい」と伝えた記憶があります。そしたら髙木先生も「僕もそう思います」って。だから「好きにやってください」と伝えて。
それを言われて僕はすごく気は楽になりましたね。と言うのも、英語教師として赴任するために「長文読解はどう教えるべきか」などの研修を受けたんですが、僕はその目的があまり理解できなくて。「これはいったい何をしているんだろう」って(笑)。当時の僕はまだ英語を教えたことがなかったし、そもそも自分も日本の学校に通っていないので『コミュ英』と『英表』の違いもまったく分からない。
そんな状態だったから、髙木先生はスーパーイングリッシュティーチャーの中ではちょっと要注意人物ではあったんです。だから池谷先生に“監視役”として「髙木先生の授業を見ておいてくれ」って伝えて。でも僕は話をすれば「この人は頭がいい」とか「ちゃんと生徒をリスペクトしている」ってことがすぐ分かるんです。その点、髙木先生はまったく問題がないことがすぐ分かりましたけどね。
そうでしたね。日野田先生が大阪府から「この人、要注意だからお願いね」と言われて、僕が日野田先生から「この人、要注意だからお願いね」と言われて(笑)
僕は注意が必要な人材なんかではないってことはすぐに分かりましたけどね。でも同時に良くも悪くも日本の教育界ではあまり好かれるタイプではないことも分かったけど(笑)。僕はそもそも授業の技術には興味がなくて、きちんと生徒に寄り添ってくれる先生かどうかしか見ていません。僕自身が日本史の教師をやっていた頃も、いわゆる“授業”みたいなものはしたことがなかったんです。生徒たちに考えさせて、僕が「なるほど、そうきたか」って感心する、みたいな(笑)
そうやって髙木先生が参加してくれて、引き続き外部企業とのプロジェクトを進めていたんですが、その中で、「どうもおかしいな……」と気づいたことがありました。それは、どう考えても髙木先生がやっている授業の方が、民間の外部企業のプログラムよりも、圧倒的にクオリティが高いってこと。それくらい髙木先生がつくるプログラムはよくできていた。だから段々と外部の企業が必要なくなっていきました。
勉強自体は目的ではない。
自分の天命を知る。
それを学校の教育の中でやりたい。
後編はコチラ。