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正解を示す中で覚えた違和感。
辿り着いたのがアートだった。
みゆさん、お久しぶりですね。僕が前に勤めていた学校の海外研修のプログラムを先導してくれたのがみゆさんでした。生徒たちと一緒にシリコンバレーに行きましたよね。当時みゆさんは、以前このメディアでも取材をさせてもらった長井悠さんの会社、タクトピアにお勤めでした。
そうですね。いやー、本当にお久しぶり! あれからシリコンバレーには行ってないなー。
本当はあの時の思い出話をゆっくりとしたいところだけど(笑)。いまみゆさんはオランダの学校に行ってるんだよね? 一時的に日本に戻って来ているこのタイミングで取材ができてよかった! 今日はまずみゆさんのルーツの部分から追っていきたいと思います。
はい、分かりました! まず私は両親が韓国人。私自身は生まれも育ちも日本ですけどね。出身は北海道の函館市で、中学、高校と女子校に通いました。そこで「韓国系のバックグラウンドがある」ということを理由に、ひどいイジメを受けてしまいます。その体験が、今へとつながる原点ですね。
これだけ時代が進んでも、そういう背景がイジメにつながることがあるんやね。
田舎なので民族的多様性が少ない環境だということもあったと思います。ちょっと“異質なモノ”だと思われていたんでしょうね。
じゃあ大学進学で東京に出てきたってことか。
そうなんです。当時、私がイジメを受けて辛い思いをしたのは、いじめていた子どもたちではなくて、周りにいた大人や親たちが持つ価値観、そしてそれを形成する日常的に触れる情報、さらに教育システムや社会的なシステムに問題があるのではと、中学・高校の頃から少しずつ思い始めるようになりました。そこで私は「それを変えるには、教育が鍵なんじゃないか」と思って教育学科に進み、英語の教員免許をとったんです。
でも大学を卒業した後に、教師にはならなかった、と。
はい。卒業してすぐ教師になると、学校しか知らない状態ですよね。「その経験で私は何を教えられるんだろう」とか「教えるスキルや知識はあるかもしれないけど、教育現場に立つものとして相応しいのかな」とか「もっといろいろな経験をしている大人と触れ合う方が生徒たちの学びは深くなるだろうな」とか、そんな風に考えてしまって。その結果、もし教師になるとしても他にも経験を重ねてからにしようと思い、イギリスの大学院に進学しました。
そこでは何を学んでいたの?
『エディケーショナル・リーダーシップとマネジメント』っていう学科にいましたね。そこで1年間学んだ後、とあるご縁があって大阪のNPOで働きます。そこは地域ブランディグとか若者の就労支援をするところでした。
あ、大阪にもいたんや。そこは何年くらい?
1年弱でしたね。さらにその後「もうちょっとグローバルなことをしたい」と考えるようになり、共通の知人を介して知り合ったタクトピアの……、当時はハバタクという会社として認識していましたけど、その代表である長井さんにコンタクトをとりました。
入社する時にはハバタクのビジョンや事業には共感していたの?
はい。ドンピシャで共感していましたよ。ただ当時はハバタクもタクトピアも違いがあまりわかっていなかったので、契約のタイミングで「あ、タクトピアなんだ」って思って。長井さんは説明してくれていたと思いますが(笑)
なるほど(笑)。そこからタクトピアの一員として、アントレプレナーシップのプログラムとかをつくっていた、と。
そうです。入社してから1年くらいはアントレをガッツリやりました。海外研修をやったり、国内キャンプをやったり。その中でいろいろと感じることが出てきて、最終的に『アート』に辿り着いたんです。
おお、そこで『アート』に! それってどういう経緯で?
当時のタクトピアがやっていた研修プログラムは、内容が限られていたこともあり、人によって合う・合わないがあったと思うんですよね。がっちりハマる生徒もいるけど、そうじゃない生徒も当然います。その時に、そうじゃない生徒が “ルーザー感”を抱いてしまうっていう問題がある気がして。そこから、「頑張れる子と頑張れない子」とか、「正解と不正解」といったカテゴリ分けに違和感を覚えるようになりました。
う〜ん、それはどうしても出てくるよね。
やはりプログラムを提供する限りは、いちおう正解を提示しないといけない。でもそれはあくまでたくさんある中の一つの方法であって、それだけが正解じゃないんですよね。例えば「資本主義社会」とか「アスリート」とか、そういった特定のジャンルの中で「良し」とされていることがあるので、その中で頑張るという選択ももちろん大切だと思います。ただそこにハマらなくて、違和感を持つ人もいるんじゃないかな? と思って。実際はおそらく一番違和感を持っていたのは私だと思いますが(笑)。そういったことをきちんと伝えることができていないなって感じていました。
そこでアートってことね。
そうなんです。アートでは、個々が正解をつくっていきます。例えば今この机にある白いコースターをみて「キレイで大好き!」って思う人もいるし「白だけなんて、つまらない!」っていう人もいる。いろいろな価値観が生まれていい世界がアートにはあります。
つまりアントレに関わる教育プログラムをつくりながら、どこかに違和感を覚えて、それを打開するためにアートに辿り着いたってことやね。ちなみにその頃つくっていたアートに関わるプログラムっていうのは、実際にアートの経験をするものなのか、もしくはアウトプットのツールとしてアートを用いるものなのか、どっちだったの?
そこはめちゃめちゃ大切なポイントですよね。確かに教育プログラムとしては、どちらもあると思っていました。でも当時は私もまだ経験が浅かったから、単純なアートアクティビティしか思い浮かばなかったんですよね。だからアントレとか探究的なプログラムをベースに、アートアクティビティを少し入れて、最終的に想いを発信するツールとしてアートを用いるものだったと思います。
やっぱりそうよね。その方がやりやすいし、教育現場にも導入しやすいっていうのは分かります。
いろいろな価値観が
生まれていい世界が
アートにはあります。
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カテゴライズせず、複合的かつ包括的に
アプローチするのが『SEA』。
そうやってアートに関わるプログラムをつくり出したものの、それをタクトピアに託すことで、みゆさん自身はまた留学をするんだよね?
そうなんです。いま話した通り、その時は“アウトプットとしてのアート”しかイメージがつかず、でも本当は「これじゃない」と感じていました。ただどうすればいいかが分からない。だから自分自身が実際にその環境に身を置いてみたいなと思って。
すぐに留学っていう選択肢になったの?
いえ、タクトピアに在籍しながら手探りでプログラムをつくるか、留学をするかっていうふたつの選択肢がありましたね。タクトピア以外の会社への転職は考えていませんでした。
留学先がオランダなのは、どういう理由で?
私が学びたかったのは、広い意味での“ツールとしてのアート”とか、“人の意識へのアートの関わり”といったようなものだったんですよね。でもそれって学びとしてはすごくニッチなんです。どうしても「アート」っていうと“技術的に”学ぶところが多くて。例えば「ダンスを極めましょう」みたいなものだったり、あとは学校の美術の先生を育てるものだったり。
芸術系で探すとなると、普通はそうなっちゃうよね。
そんな中でいろいろと調べていくうちに、オランダの大学でそういうことを教えているコースがあると紹介してもらいました。
なるほど。そこで出会ったのが、いまみゆさんが学んでいる『ソーシャリー・エンゲイジド・アート(以下:SEA)』だった、と。
まさにそうです。だから私も別に「SEAをやりたい」と思って向こうに行ったわけではないんです。徐々に気づいていったというか、感覚的に行き着いた感じですね。狭義的な「美術」という意味でのアートではなく、もっと広義的というか、私は人生そのものだと思っているんですけど、そういう観点に近いのがSEAだと思います。
文化的な背景のせいか、SEA自体が日本ではあまり知られていない現状があるけど、具体的にはどういうことを学んでいるの?
私が在籍しているのは『Art as a Tool for Social Exchange』っていう、まさに「アートはソーシャルチェンジを起こすためのツールだ」ということを掲げた『Artist Educator』という名前のコース。その中には、ダンサーやフォトグラファー、映画をつくる人など、いろいろな人がいます。みんなそれぞれに自分のアートツールと強みを持っていて、それを使ってコミュニケーションをし、何かを引き出していく、みたいなことを学ぶコースです。
つまり日本の探究学習で言われているような、“課題ありき”ではないってこと?
そうです。課題を定義することからアプローチするわけではありません。日本を含めた資本主義社会では『課題解決』とか『デザイン思考』、『アート思考』みたいなことが叫ばれて、常にカテゴライゼーションをしますよね? それってメソッドとしては確かに便利なものなんですけど、人間が生きていく過程ってすべてがカテゴライズできるものではないし、分解できるものは限られています。だからもっと複合的かつ包括的にアプローチしていくのがSEAなんですよね。つまり『アート思考』とか『デザイン思考』といった枠組みには収まらないものを、対話を通して引き出して、ありのまま受け入れていくのがSEAだと私は思っています。
それ、すごく理解できるわ。複雑であるものを複雑なままおいておく大切さ。そもそもすべてを言葉にできるわけじゃないし。でも他者に伝えるためにはシンプルにしないといけないっていうジレンマがあるよね。日本の教育現場でもそれと同じようなことは起こっていて、「デザイン思考」とか「アート思考」とかシンプルな言葉が提唱されることで、言葉だけが一人歩きして、それ自体が目的化されてしまうというか。
イエス! それ、めっちゃ分かる。
それが繰り返された結果「このプログラムは成功した!」とか「次はいま流行りのあれを授業に組み込みましょう!」みたいな感じで、先生たちもきちんと理解できていないままに、プログラムの表層部分だけを取り入れるっていう。もちろん広めるためには教材にしないといけないから、そのために複雑なものをシンプルな言葉にせざるを得ないのは分かるけど、この現状はマジで意味がない。
みゆさんが属しているコースには、ダンサーがいたり、フォトグラファーがいたりって言っていたけど、みゆさんにはどういう表現方法があったの?
確かにそれは悩みました。だって私には何もないから。でもその中で私にできることがふたつあるかなと思って。ひとつ目は、日本でアントレプレナーをベースとした教育プログラムをデザインしていたから、そういう観点から学びをビジネスへと変換させたり、社会と適合させたりするノウハウや経験。そしてもうひとつはアートツールをまったく持っていないからこそ、逆に新しいものをそれにしちゃえ! っていう考え方で、そこから辿り着いたのが食べ物です。つまり、おむすび(笑)
出た! おむすび(笑)。それ、詳しく聞きたかった。
最初のきっかけは単純です。その大学に “ラーニングコミュニティ”みたいなサークルがあって、『食べ物の日』的なイベントが行われていました。そこで「次、やりたい人は?」って言われたので「私、日本食をやります!」って手を挙げたんです。それを開催した結果、みんながとても喜んでくれたんですね。そのサークルは国も人種も違うしさまざまなバックグラウンドを持った人が集まっているところ。でもおむすびを食べている間は、全員がすごくハッピーな雰囲気で打ち解けていたんです。やっぱり美味しいものを目の前にすると、人はすごく幸せになるっていう、いわばとても単純なところに気がついて。
うん。美味しいものを食べて、お酒を飲んでいるときが一番幸せ。
そうそう。めっちゃ幸せですよね。美味しいものを食べてイヤな気持ちになる人はいないから。それにおむすびってキャンバスみたいなもので、入れる具材がアイデンティティとしてアウトプットできるんですよね。
国によって中に入れる具材が変わるってことか。確かに家によっても変わるもんね。
ですよね。それに“身体を使う”っていう面でもおもしろくて。“むすぶ”っていう行為もそうだし、具材を選ぶ過程で匂いを嗅いだり、ちょっと味見してみたり、人に聞いてみたり。そういう身体性に通じる部分もすごくおもしろかったんです。
アートは
コミュニケーションでもあり
私は人生そのものだと思っている。
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言語化に頼らず、身体の声を聞く。
その結果、人生でいちばん幸せに。
『おむすびプロジェクト』の中で重要だと感じたことは、やっぱり『身体性』というか、自分の身体の反応みたいなところなの?
そうですね。例えば嗅覚にフォーカスして「この匂いから、自分のどんなメモリーが呼び起こされますか?」みたいなワークショップをやりました。そうするとそれぞれの記憶から対話が生まれてどんどん膨らんでいくんですよね。基本的に私がデザインするプログラムは様々な「対話」をベースに展開されます。自分自身との対話、他者、事象、記憶、コンテクストなど。お互いに対話を通して気づきを得ていきます。そういった点では、教師も生徒も対等な関係で学び合う『クリティカル・ペダゴジー』と呼ばれるものと近いかもしれません。おむすびをつくる過程の中で、いろいろなストーリーを思い出してもらったり、その時の気持ちや味を絵に描いてもらったりしながらそれぞれがアウトプットをして、それについてまた対話をしてっていう繰り返しです。たとえば「チリの味はブレイブだ!」なんて言いながら。
“勇敢”なんや(笑)
そうそう。おもしろいでしょ?「ハニー味はファミリーのケアを感じた」とかね。そうやって「この味は、こういうストーリー」っていうのが見えるようになってくる。
なるほど。むすぶっていう行為とか、臭いの感覚を研ぎ澄ませることで呼び起こされる記憶とか、そういう身体性にフォーカスするための取り組みなんやね。
はい。そもそもオランダの学校に入ってはじめの数ヶ月間、身体性に関する分野を専門にしている先生の授業を受けて、それがめちゃめちゃよかったんです。その授業は、毎回輪になって手を温めることからスタートします。そこから目を開いたり、互いの体を触ったりしながら、身体のすべてを使ってコミュニケーションをとっていく。
非言語コミュニケーションってことか。
あとは空間すべてを使うようなものもありました。「ここは歩いてOK」「最初は一定の速度で直進だけ」「次は曲がってもOK」……って、少しずつルールが増えていきます。その中で生まれるグループ・ダイナミクスは本当にすごくて、言葉をまったく使っていないのに「この人ってこういう人だな」とか「このグループはこういう感じだな」っていうのが分かってくるんですよ。
へ〜、それ、すごい!
他にもいろいろな体験をしましたよ。例えば「肘の声を聞いてみよう」とか「肘の声を聞いた時の動きはどういうものか」とか(笑)。どれもすごく興味深くて。やっぱり身体にしか分からないことがあるし、自分の中に開花されていない感覚がこんなにもあったんだってことに気づけました。
そうやって得られるものが、結果的に何かの学びにつながるの?
はい。つながると思います。さっきの話にもありましたが、言語化ってすごく便利なツールだし、複雑なことを単純化して伝えやすくするのも必要なスキルなんですけど、その一方で、言語化できないものも確実にあるんですよね。その時に身体性が重要になってくる。つまり人に自分が伝えたいことを理解してもらいやすくするために言語化することは大切だけど、その前の段階で「自分は何にどういうことを感じ、どう生きたいのだろう」「何を伝えたいのだろう」といったことに気づくために、そして言語化だけでは判断できない部分においては、身体感覚を指標にして行動していくっていうことですね。
なるほど。
それができるようにするためには、そもそも自分の身体感覚に気づけるようになっていないといけないし、感性も備えておかないといけない。それをどうやって養うかっていうと、いま話した授業のようにアクティビティをするしかないんですよね。だからあの授業でやっていたことは、私のいまの活動のベースにもなっています。
そう考えると、追手門の『表現コミュニケーションコース』でやっていることはすごいなと改めて気付かされる。でも実際に経験してみないと、なかなかピンと来ない領域だけど……。
少し話はずれるかもしれないですけど、私いま人生でいちばん幸せなんです。っていうのも、東京で働いていた頃って、常に焦燥感みたいなものに駆られて「もっと」とか「成長」「向上」みたいな感情に迫られるというか、止まることは怠惰と見なされてしまうというか、資本主義の世界で評価される「成長」をし続けることだけが歓迎されるみたいな感覚がありました。もちろんそんな生活や仕事も楽しんでやっていたし、意味があるとも思っていたんですけど、同時にそれを続けることで失ったものもあるように感じていて。「がんばる」って何なんだろう。「すごい」ってなんだろう。「成長」「向上」ってどこに向かったものなんだろう……といった風に、ずっと疑問をもっていました。
それがオランダに行くことで変わったの?
はい、そうなんです。SEAを経験したり、アートのある環境にいたりすることで「こんな状態の自分に今まで出会ったことがない!」っていうくらい変わりました。本当に気持ちのいい状態っていうか。さまざまな経験をする中でハッとなった。その身体感覚ってなかなか言葉では表せないんですけど、指標にしていたものが変わっていったというか、見えてきたっていう感じかな。例えばこれまでだったら「自分がやっているアートのプロジェクトを発展させる・数を増やす」といった指標を持っていた気がします。それが今は、自分自身の感覚を指標にして、より身体感覚のもとで動けるようになったっていう実感を得ることができました。だからこの感覚でいられる仕事をやっていけばいいんだなって今は思っていますね。
なるほど。それは半分くらい理解できるかな。自分の身体感覚に意識的になれれば、自分自身が「気持ちがいい」と思える場所にとどまっていられるけど、その感覚がなくて自分を動かすものが自分の外にあると、その場所に戻ってくる時間がないっていうか。実際、そういう生活を送っている人は多いと思うし。
イエス! それです!!
僕も同じような感覚を覚えたことがあって。それはアメリカの学校に視察に行った時の話。自分の学校にプログラムとして取り入れることを目的に、シリコンバレーで流行っている取り組みを実践している学校や企業を見学して、そこにいる人たちの話を聞く体験をしたんだけど、その時に、こうなんと言うか、体が「ギギッ、ギギッ!」ってきしむような。
あぁ、なるほど。
実はその前々日に、サンフランシスコにある『パフォーミング・アーツ』をやっている大学にも見学に行っていて。そこにはたくさんの移民が住んでいるので、それぞれの地域のことを理解するためのプログラムとして、例えばガーナの民族ダンスを一緒に踊ることで、ガーナ人がどういった感覚や価値観を持っているのかを知るっていう、それを『コミュニティー・ダンス』って呼んでいたけど、そういう体験をさせてもらった後だった。その影響もあったのか、IT系の先進的な企業でバリバリ働きながら「こういうビジネスモデルが!」とか意気揚々に語っている人をみた時に、違和感というか、体が「キュ〜」ってなる感じがあって。もちろんその人たちにも自分なりの正義があって「社会を良くしたい」っていう思いで責任を持って仕事をしているんだけど「自分はそれではない」ってことを内側が訴えてきた感じ。
身体が返事をしている感覚ですよね。今の私には常にそれがあるんです。でもいま日本に滞在しているうちに、それも忘れそうで。
そうそう。僕もあの体験から1年が経って、今は身体がそういう反応をしなくなっている。だからみゆさんも早くオランダに戻らないと(笑)
あ、ほんとだ(笑)
言語化するだけでは
判断できない部分においては
身体感覚を指標に行動していく。
※後編はコチラ。