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問題解決にこだわらず、
『トランスレーション』を起こしていく。
(前編はこちら)
改めてここから、いまみゆさんが学んでいる『ソーシャリー・エンゲイジド・アート(以下:SEA)』について、お話を聞いていきたいと思います。僕が少し調べたところだと「アートによって社会的な変革を起こすもの」といったような定義がされていて、例えば「人権問題や紛争をアートを用いて解決しよう」みたいなイメージでした。でもみゆさんの話を聞くと、別に課題解決のツールっていうわけでもないような気もします。だって『おむすび』があることで、何かの課題解決になるかっていうと、そうではないわけで(笑)。改めてみゆさんがSEAをどう捉えていて、どのように活用できると感じているのか、教えてほしい。
これはね、話すと長くなりますよ(笑)。まず確かにSEAは課題解決へのいちアプローチでもあります。でもそれだけじゃなくて、いま池谷先生が言ったように、正解がない世界というか、課題があるかどうかすら分からないところでも活用できるものだと私は思っていて。
課題解決にこだわらなくてもいいってことか。
そうなんです。SEAを行う上で私が大事だと思っている軸が2つあります。ひとつ目は『自分との対話』で、もうひとつが『グループや周りとの対話』。自分との対話は、コンテクストの観察をベースに自分の内側の感覚的な部分を呼び起こす過程になります。一方の周りとの対話は、個人やコミュニティ、地域といった対象と共に活動をするもので、そこから内外の対話を深める過程。このふたつは明確に棲み分けされたステップというよりも、同時並行的に起きることのほうが多いんですよね。いずれにしても私は、SEAというのは文化人類学者のようなアプローチに3つの要素を加えたものだと思っています。それが『プレイフルネス』と『トランスレーション』、そして『協働』です。
その3つは重要なキーワードになりそう。『プレイフルネス』ってことは、つまり楽しいことが大事ってこと?
はい。好奇心とかワクワクする感じとか、そういうもの。つまり身体的な感覚として「これ、いいな!」「楽しそう!」と思えるものですね。もちろんSEAにも色んなアプローチがあるので、一概にSEAのすべてが楽しさを基本にしているわけでは決してありません。ただ私が大事にしたいSEAの要素として『プレイフルネス』は欠かせないということになります。自分の関心をベースに、コンテクストとプレイフルに対話、観察しながら、そこから体に入ってくるさまざまな情報、つまり目で見たもの、耳で聞いたもの、触れたもの、食べたもの、それらを自分の中で消化していくわけです。そのときに起こっているのが、『トランスレーション』ですね。そして消化した情報を何かしらのアウトプットでさらに昇華します。もちろんそこでもトランスレーションが起こっています。
消化する時と、アウトプットする時の両方でトランスレーションが起きているってこと?
はい。得た情報を何かしらの形でビジュアライゼーションしていくので、そこでもトランスレーションが起きます。さらにそれを観た他の人が自分なりに解釈していく時にもトランスレーションが起きていく。これが私が思うアートを支える土台であり、コンテクストをベースにして、関わる人たちにそういったトランスレーションが起こるのがSEAなんです。
自分に起こっているし、他の人にも起こっている。そしてそれがまた他の人に影響していって連鎖していく。
そうですね。
つまり課題解決とかデザイン思考っていうキーワードを用いてSEAを進めることももちろんできるんですけど、そうじゃなくて『トランスレーション』が起こりやすい感性があって、はじめてSEAは成り立つと思うので、大前提として、そういった感性を育む環境に時間を使うことが、ゆくゆくSEAを行ううえで重要となってくるんですね。私が教育プログラムをつくる時にも、その辺りを大事にしています。例えば「まず街に出かけていって、情報をインプットして……」っていうやり方をするのもいいけど、それよりもまず自分自身の中にあるものを呼び起こすようなアクティビティを行って、しっかり感性を磨いておかないと、いろんな情報に触れたとしても、それらをどうキャッチしていいのか分からないと思うんです。っていうのも、実際に私がそうでしたから(笑)
なるほど。そもそもそういう訓練を受けないと、自分の中でトランスレーションが起こっていることにすら気づけないもんね。
そうなんですよね。
確かに自分の内面に意識的になることで「自分はこういうことを生み出せた」ってことに気づけるし、他の人に及ぼした影響を聞けるのもおもしろいよね。「あなたはそう解釈したんだ」っていうことを知ることが自分の気づきになって、結果的に自分にベクトルを向けることもできるから。
まさにその通りです!
この部分は僕もすごく大事だと思っていて。だって本当に自分が解決したい問題って、自分の中から出てきたものじゃないとダメでしょ? 外部から「ここに社会的な問題があるから、解決して」って言われても、本気で取り組めないから。
同感です。まずは、本人も協働する人たちも、自分の内側に気づきながら進めないと本質的じゃなくなると思います。私がやっている『おむすびプロジェクト』も、私を含め、一緒に活動する人たちが自分自身を見つめる要素やダイアログがめちゃめちゃありましたから。
じゃあそういうプロセスを繰り返しながらまずは自分に意識を向けて、その次の段階として、自分の持っている強みを活かして課題解決のためのアプローチにするってことか。
そうなんですけど、いま出てきたふたつ目の工程は、別に課題解決を目的にしていなくてもいいんです。たとえば何かの「良さ」を浮き彫りにして広げていくとか、そういうものでも大丈夫。とにかく大事なのは、対話を通して「この人はこういう気持ちなんだ」っていうことを知り、さらに「その気持ちから抽出されていったものは何か」「そこから見えてきた要素はどんなものか」という所に意識を巡らすこと。もちろんその中で課題が見えてきて、それを顕在化させて、結果的に解決へと導くこともありますけどね。
じゃあ外的な要因との接触の中で生まれるものだけじゃなくて、自分の中で起こるトランスレーション自体も、SEAの一部だっていう認識っていうこと?
そうです。私は絶対にそうだと思っています。
なるほど。「アートを用いて社会にアプローチします」っていうのがSEAだと捉えることもできるけど、みゆさんの考えではそれだけではないってことだね。ちなみに日本と比べて幸福度が高いと言われているヨーロッパの国では、文化的にアートが根付いているような気がするけど、みゆさんのように身体性に意識的な人も多いの?
う〜ん、それはどうかな……。やっぱり私の意見もすごく偏っていると思ってもらった方がいいと思います。というのも私はそもそもアート系の学校に行ったし、それを指針に生きている人が周りには明らかに多かったんですけど、一般的な社会で見ると日本と変わらないかもしれない。結局アートって科学のように証明できるものではないので、特に資本主義の中では貢献価値が見えにくいから。そこはどこの国でも一緒だと思いますよ。
SEAの土台は感性。
コンテクストとの対話を通して、
トランスレーションが起こるのがSEA。
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正解のない世界の中で、
本来的に教育が担うべきこととは?
日本の学校の授業にSEAを取り入れるとして、3年間のスパンでプログラムをつくるとしたら、まずは自分に意識的になることで社会の中にいる自分のことを知ってから、その外側にある社会にアプローチするのがいいよね。いま僕が追手門の生徒たちにやってもらおうと思っていることも、それにすごく近くて。つまりインプットしたものをしっかりと自分のものにしてからクリエイトするっていう考え方。ここではきちんと自分に落とし込む工程が本当に大事で、それをやるかどうかで生まれるものがぜんぜん変わってきます。
そうそう。もうめちゃめちゃ変わりますよね。
あとその工程を踏むことで、他者を観察する力も上がっていくし、気づく力も強くなる。最近の探究の授業では、先生たちが導いて教えることなんて全然ないっていうくらい子どもたちの方が成長してて。
あ、その『観察』っていうのもすごく重要なキーワードなんです。ここでいう観察は英語だと『コンテンプレーション=Contemplation』になるのかな。よく使われる「Observation」よりももう少し自分の中で考えを巡らせているイメージ。と言いつつ、私もネイティブではないので、間違っているかもしれないけど(笑)。
つまり自分と自分の周りを観察するのが大事ってこと?
そうです。コンテンプレーションあって、次に『インプリメンテーション(=Implementation)』、つまり『実行』がある。その繰り返しが大切だと思います。もっと細かくするなら『観察』をして、そこから『イマジネーション』していって、それを『アウトプット』する中で、可能な『インタラクション』が見えてくる。さらにインタラクションの中で『アイデア』が生まれて、それを『テスト』してみて、テストすることでどういったことが起きたのかを『確認』して、また『プラン』して、『批評』して、また考えて……っていう風な展開があると私は思っています。
図がすごく複雑になってきた!
どうにかSEAという抽象的なプロジェクトの進め方を図示化できないかなと思って(笑)
この『コンテンプレーション』ができるようになるためには、トランスレーションに慣れないといけません。だから中学や高校の3年間をかけて学ぶとしたら、1年目は自分を知ることができる感性を身につけさせて、その次にコンテンプレーションにフォーカスしたプロジェクトをやり、その次はインプリメンテーションをやってみるとか、そういった流れがいいかもしれませんね。時間をかければかけるほど本物になっていくっていう感覚はあります。
なるほど。いま追手門で僕たちが教えている生徒たちだったら、自分たちがアウトプットした作品を見ながら10〜15分くらいディスカッションができるし、わりとトランスレーションに慣れてきているのかもしれない。
それ、すごくいい状態ですね!
わざわざ美術館に行って絵画を見るようなことをしなくても、何かしらの対象物があればそれについて議論ができるし、その中で多様性を実感することもできる状態にあるから。う〜ん、このプロセスはすごくいいなぁ。ぜひ3年間かけてやってみたい。
めちゃめちゃいいと思いますよ。私はオランダに行って1年間に凝縮する形でこのプロジェクトをやっていたんだけど、小中高生の時からこういう訓練を受けていたら社会に出て自分で何かをやっていく時にすごくスムースだったと思います。だって私はすごく戸惑っちゃったから。今までそんなことをやったことがないし頭も硬くて。やっぱりインプットとアウトプットを繰り返す中で、なかなかアウトプットができないんですよね。それはもう、めちゃめちゃ困りました。でも周りのみんなはすごくクリエイティブに表現していくんです。
へ〜。具体的にはどういう風に困ったの?
大学院時代のSEAの基本的なセッションは「はい、じゃあ今から外に出て、街を観察して得たことを発表してください」というだけのムチャブリばかりで、入学当初は「……」ってなっていました(笑)。その頃の私の頭は硬かったので、何を観察したらいいのかが分からないし、それをどう発表したらいいのかもまったく分からない。つまり“正解を先に探すこと”で頭がいっぱいになっちゃって、外に出たはいいものの、何も感じないわけです(笑)。最初は本当に訳が分からなくてとても苦労しました。「これって、本当に教育なの?」って(笑)。でも今では「これがクリティカル・ペダゴジーでもあるんだな」って、SEAと絡めて理解しています。
なるほどね。でもそれを繰り返したことで、いまみゆさんが感じているような幸福感を持てるだろうし、他の誰かではなくて自分の感覚で自分の人生を進めている実感を取り戻すことができると思う。その感覚を与えてあげるのって教育の本質であり、かつ根幹でもあるはずで、しかも本来的に教育が担うべきだと思うから。
そうですよね。やっぱり自分の感覚で生きていくのがいいですよ。それが難しくなっていっていますけどね。自分で正解をつくっていけるこの時代の中で「まだロールモデルを追いかけますか?」「まだ正解を追い求める生き方をしますか?」っていう話だと思います。それよりも、自分の中から生み出したもので歩んでいける自信をつけるためにもこういう訓練が必要だし、それによってどの時代でも適応できる力がついていくんじゃないかな。
あとここで確認しておきたいことがひとつあって、それはここまで議論してきた内側へのフォーカスだけじゃなくて、『協働』という概念も大事だってことです。
協働?
そう。つまりこういったアートをベースとしたプログラムを通して「自分の感性がこう言っているから、それを信じる」っていう、言わば“ひとりよがりな”生き方を推奨しているわけでは決してなくて、他者との対話、ダイアログもとても重要だということです。ひとりで生きていく時代じゃないからこそ、いろんな人が交じり合いながら、多くの協働ができるようになるのも、この訓練の魅力だと思います。
なるほど。アートプログラムもやり方や受け取り方を間違えれば、“個人主義”を助長しかねないもんね。
そうなんです。それが懸念点っていうか、自分にフォーカスしていくっていうことは、つまりエゴイスティックになる可能性も孕んでいて。特に「個性」だとか「新しい価値をうみ出すことが大事」とか言われている風潮があるので、それが行き過ぎると個人主義が強まってしまいます。でも私は協調性があることもすごく大事だって思っているので、そこは気をつけながらやらないとダメですね。
もともと海外と比べても日本はそういう部分を大事にしてきた国で、つまり良くも悪くも自分自身にフォーカスしたり、自分の考え方を主張したりすることを良しとしない文化があるから、そのいい面は残しながら、新たにこういうトレーニングを実践していくのがいいね。うん、未来が見えてきた気がする!
自分で正解をつくれる時代に
まだ正解を追い求める
生き方をしますか?
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「複雑性がある」ことを前提に、
他者に対しては『ノージャッジ』で。
最後にもうひとつ、SEAで重要だとされていることがあります。それは最初の方にチラッと触れたことにも関連する話で『ライゾーム』っていう考え方。日本語では「根茎」っていう意味で、繰り返しになりますけど、すべては混じり合いながら複雑に絡み合っているっていうことです。
さっきの話でいくと「日本人の文化がすべて良いわけでもないし、悪いわけでもない」っていうこと?
そうです、そうです。あと「自分にフォーカスするだけで良いわけでもない」みたいなのもそうですよね。木の根っこが絡み合っているのと同じように、世の中の事象ってすべてが複雑に絡み合っているから、それを1本1本解いていこうとするのではなくて、絡み合った複雑な状態をそのまま受け入れることが大切なんです。これは教育の現場にも当てはめることができると思っていて、生徒たちと接する時にカテゴライゼーションしないことが大事なんじゃないかな。
それはすごく分かる。シンプルに何かひとつを取り上げて、それが出来るか出来ないかで評価を決めたり、序列化してしまったりしている教育現場の現状があるから。究極的には「生徒たちをいっさい評価しない」っていうのが理想だけど、それでは教育や社会のシステムが成立しないだろうから、何らかの指標は必要だし、これからも存在し続けるとは思うけど。
そうですよね。取り上げたひとつの指標もあるし、その他もたくさんある。色々なことが絡み合っているということをしっかり認識しないといけません。教育というものがそういう捉え方ができる人材を育てるサポートをしていければいいですよね。よく言われている『デザイン思考』とか『課題解決』などの訓練は、あくまでそれを理解するアプローチのひとつとしてやればいいだけだから。
うん、うん。「複雑性がある」っていうことを前提におかないといけないよね。
はい。なぜならカテゴライゼーションって『分断』とか『差別』の第一歩になりかねないから。確かに効率性とか生産性を重視する現代社会においてはカテゴライズってすごく便利だから、人は無意識にやっちゃうんです。でもそれがいきすぎると差別につながっていて「こういう人って、こうだよね?」みたいな偏見が生まてしまいます。
カテゴライズしない大切さか。うん、それはとても大事だよね。
もちろん便利なものだから使うときは使ったらいいんだけど、気をつけないといけない。例えば「学校の成績が優れている」とか「お金を多く生み出している」とか。さらに「規模が大きなプロジェクトの方が価値がある」、「よりたくさん発信をしている」、「起業家はかっこいい」……そんな風に人を外的要因でカテゴライズして優劣をつけていくのは危険だっていうことです。それに「東京の人ってこうだよね」「埼玉の人ってこうだよね」「こういう服を着ている人はこうだよね」「こういうメイクをしている人はこうだよね」……。そういった格付けとか区別みたいなものが日常的に起こっていて、そこから「韓国人はこうだよね」みたいな考え方までつながっていくこともあります。その人自身のことをぜんぜん見ていないんですよね。
「東京に何人の人がいるのか」っていう話よね。それをひとまとめに語ることなんかできるわけがないのに。確かにそれは教育現場でも言えることで、先生たちが偏差値で区別したり、家庭環境で区別したり、さまざまな色眼鏡で生徒たちを見てしまうところがある。
もちろん世の中にはジェネラライズできることもあると思います。でもそうやって自分のクライテリアでジャッジしていくのは危険ですよね。だからさっきまでの話を少し相反する言い方になってしまうかもしれないけど「自分の身体感覚に意識的になって、その声を聞く」っていうのはすごくいいんだけど、外的要因で出来上がったクライテリアで人を判断するのは、すごく怖いことだと認識しないといけないですよね。
その通りだと思う。自分のやりたいことや、やるべきことに対しては、常に自分の内側の声を聞きながら自分でジャッジしていかないといけないけど、他の人に対するジャッジはしてはいけない。最近の教育現場においても、養うべきスキルとして「意思決定」と「ジャッジ」という言葉がよく見られているけど、ジャッジメントっていうのは「人を判断することではなくて、自分自身に関して判断する力だよ」っていう風に僕も生徒に伝えているようにしている。他人をジャッジしない。これは絶対やね。
うん。『ノージャッジ』。これからはそれでいきましょう!
外的要因で出来上がった
クライテリアで人を判断するのは
すごく怖いこと。
(おわり)