Theme1
学校の中だけでは
見つけられない生徒たちの個性。
(前編はこちら)
じゃあ続いて眞鍋先生、いってみようか。
はい。私がやりたいことはずばり『共同生活』です! 結局、授業内での取り組みは、学校という限定された場所の中で、整備された状況で行うものなので、どこかで枠があるというか。その枠を超えたいです。
眞鍋先生がイメージする共同生活って、どんなレベルのものなの?
理想を言えば「トイレを自分たちでつくるところから」です。ただそんなサバイバルは現代の生徒に合わないので、普通の生活環境がある状態で日常的な暮らしを営むというレベルを考えています。
めっちゃいいアイデアだと思うけど、それを授業でやる意図はどこにあるの?
「日常生活」という終わりのない何かを成立させる過程で、学校では得られないような体験がたくさんできるからです。私自身、大学生の頃に1ヶ月間、キャンプで過ごすという経験をしました。多い時は100人を超える大所帯の中で、自分のアクションが周りにどういった影響を与え、またそれがどのように自分に返ってくるのかを実感したんですよね。それは楽しくもあり、辛いものでもあったけど、間違いなく自分自身と向き合えたと思っています。
集団で共同生活を送ると、それぞれが活躍できる場所が異なることが分かってくるよね。そこから生徒たちが気づくことがあるのかもしれない。
そうですね。チームの中で自分はどんな役割を担いたいのか。その集団に足りていないコトやモノは何なのか。そしてそれはどうすれば補えるのか。そういうところに意識が向きます。
眞鍋先生自身もキャンプの時に、実際にそういう風なことを感じた?
はい。「自分は人の真似ばかりしているな」とか「ここは自分がいなくても成立するな」と思わされる瞬間が何度もありました。もちろん「私にしかできない事があった」って思うタイミングもあったけれど、どちらにしてもその生活からは逃れられない。この環境下で気付けることってたくさんあると思います。
ちょっと話は変わるけれど、最近アイドルオーディション系のテレビ番組が多いじゃないですか。共同生活をしながら仲間がどんどん減っていって、残った人がデビューする、みたいな。あの中で落選した人がスッキリと納得した表情で去っていけるのは、ダンスや歌のスキルだけじゃなくて、練習や生活のすべてを観察された上で判断されているからじゃないかなと。
なるほど。
その上で、学校っていうのは生徒それぞれの個性を見つける場所であるにもかかわらず、学校の中だけでは生徒のごく一部しか見ることができません。だから共同生活をさせるというのは、非常にいい挑戦だと思いますね。
僕も共同生活には賛成。そういえば、過去に働いたことのあるオーストラリアの学校がかなり特殊で、中学3年になると生徒たちを山奥のログハウスで生活させてたな。隔離された環境で、生活に関わるほぼすべての活動を自力でやらないといけないから、例えばシャワーを沸かすための薪も自分で斧を振って調達するしかないとか。
池谷先生がそんな学校で働いていたことすら知らなかった(笑)
実はそうやねん。さらに卒業課題として出されるのが、1週間分の食料とキャンプ道具、コンパス、そして地図を渡された状態で目的地までたどり着くっていう、かなり過酷なもの。
でもそれを乗り越えて、みんな高校生になるわけですよね。
そうやね。その1年間で、生徒はみんな見違えるほど成長していたよ。それだけ環境的に追い込まれると「生きなければならない」という使命感が芽生えて、おのずと自分と向き合って、必要な能力や役割を考えるようになるからね。そんな経験をした生徒は「偏差値」のような数字に溺れることなく、自らの歩む道を選べるようになるんじゃないかな。もちろん日本の学校で、そこまで振り切った共同生活をさせるのは無理があるとは思うけど……。
学校の中だけでは
生徒のごく一部しか見れない。
共同生活はいい挑戦になる。
Theme2
慣例的な「枠」が
及ぼす数々の弊害。
僕が考えたのは、キャンプのようなサバイバル的なものではなくて、いわゆる缶詰状態にするというもの。物資や設備がなにもない状態を知ることで、自分があらゆるものを享受するだけの立場にいたってことに気がつくと思います。
普段、自分は何も特別なことをせずとも、生活が送れているわけだからね。
そうなんです。「あの人はいつも料理をしてくれるな」とか「自分はみんなに何も与えられていないな」などと感じると思います。その次は「じゃあ自分はどんな価値を周りに提供できるだろうか」なんて風に考えるようになる。例えばコミュニケーションが得意な生徒なら「面白い話をして場を和ませよう」と考えるかもしれないし、きれい好きだったら「ゴミを拾っておこう」かもしれない。共同生活という小さい社会の中で、自分が貢献できることを見つけられたら、すごく自信になりますよね。
どんな些細なことでもいいから、社会で役立つ自分の価値が見つかるということですね。
うん。しかも頃合いを見計らって“通貨”を入れて、より現実の社会に近づけることができると、さらにいいですね。お互い無償で与え合っていた個々の能力が、お金という数字に換算できるようになった瞬間に、等価で交換できるようになるし、自分の価値を比較し合うようにもなります。
自分が提供できることに“値付け”されるってことですね。
でもそこまでギスギスした感じにはならないんじゃないかな。どちらかというと「今よりも2倍は働かないと」みたない感覚になると思っています。
面白いね。ただやっぱり環境をつくり出すのが難しいな……。この話で重要なのは「非日常を体験する」ということ。上月先生が言っていたように、我々教師は、学校にいる間の生徒しか知ることができないし、それは生徒同士も同じ。でもそれは寂しいことよね。学校や部活、それに塾や家での時間など、日常生活が決まったルーティーンで忙しく流れていく生徒が多いからこそ、その循環からしばらく離れる環境をつくることで、新しい発見があるんじゃないかな。
僕がいま皆さんの話を聞いていて「こうなればいいな」と思ったのが『枠を感じさせない』というものです。
枠? それって例えばどういうもの??
いろいろな考え方ができると思うのですが、身近なものでいうと「教科書」もそのひとつですね。他にも無意識の部分で、さまざまな枠にとらわれているような感覚があります。いつの間にか“当たり前”とされている枠組みに沿って行動をしてしまっているというか。
教科書という枠、授業という枠、学校という枠……。そういうものを感じているってことやね。
はい。あと例えば「高校3年生はこうあるべき」とか「大学生になったらこうするべき」のような暗黙のルールみたいなものを感じませんか? たとえば進路相談の場で「看護師になりたいので、大学に進んだら医療の勉強をします」のようなことをよく聞くじゃないですか。
そこにも枠を感じるってことやね?
はい。この生徒にとって「看護師になること」はすでに持っている夢なのに、なぜか勉強をするのは“今”ではなくて“大学生になってから”になっているんですよね。高校生のうちにやれることはあるはずなのに、なぜか期限のようなもの、つまりそれが「枠」なんですけど、そういうものが存在しているような気がして。
それはすごく分かるな。将来やりたいことがすでに見つかっているのに、行動に移すまでの猶予があると思ってしまっている生徒、たくさんいますよね。
「高校の間に専門知識を身につける必要はない」っていう考えがあるんやろうね。あと佐藤先生の枠の話を聞いて思ったのは、進路を決める時期すら枠になっているってこと。学校から「やりたいことはなんですか?」と聞かれるタイミングがあって、そこに間に合うように考え始める生徒っているやん? 聞かれたから一応の答えを出してみたものの、それが今の自分がエネルギーを注いでいることとつながっていない。その結果、今ではない先の自分に託して、しかも目指す大学も決まってしまうっていう悪循環があるよね。
進路を決めるタイミングも、生徒が自分で決めるというよりは、学校側が期限を設けていますよね。
でもみなさんの高校生活を振り返って、どうですか? 僕は「もっと遊んでおけばよかった」としか思えなくて「もっと将来のことをきちんと考えておけばよかった」とか「就職に向けて準備しておけばよかった」って感じることは一切ないんですよね。だからもし「大学に入るまでは何も考えずに遊びます」と言う生徒がいたなら、僕は「OK。ハチャメチャやれよ!」とだけ伝えると思います(笑)
高校生だからこその楽しい時間って必ずありますからね。
そう。ただ学校の中には慣例的な枠がたくさん存在しているというのは同感です。特に疑問なのは、いま話題に上がった進路について。あまりに先を見過ぎて、生徒たちが実際に働き始める頃には、社会が変わっているはずなのに、今すべてが決まるような選択のさせ方をしていますよね。我々教師も含めて、もっと世の中はもっと目まぐるしく変化しているということを前提に考えた方がいいよね。
進路を決めるタイミングまで、
生徒が自分で決めず、
学校が期限を設けている。
Theme3
枠を感じさせず、
「終わりがない」と思わせるために。
僕が引っかかるのは、やはりさまざまな見えない枠が存在していて、いろいろな制限がかかっているという部分ですよね。本当は生徒たちにすでにやりたいことがあるなら、それに真摯に向き合ってほしいと思っているし、そのための時間をつくってあげたいんですけどね。
その原因は学校や教師に余裕がないことにあるんじゃないかな。というのも、やはり先生の心理として「生徒が希望する進路を早めに把握しておきたい」っていうのがあるから、期限を設けて半ば強制的に情報を収集しちゃうでしょ? つまり先生自身が設定したタスクを消化するために、生徒が被害を受けているような印象はあるよね。それが佐藤先生の言う「目に見えない枠」になっていくんじゃないかな。もしかしたら「まずは先生が落ち着きましょう」って言える第三者的な存在が必要なのかもしれませんね。
あと進路を決める時に将来の構想から逆算させるのもよくないのかもしれないね。まず夢があって、それを叶えるための大学を挙げて、そこに入るのに必要な偏差値を出してっていう。だって本当に大事なのは、学校に言われた期限までに無理やり夢を見つけることではなく、今一生懸命になれることがあるかどうかじゃない? その延長線上に、選ぶ大学や夢も見えてくるはずだからね。
ってことは、生徒への問いかけ方を変えていくべきなのかもしれません。今って夢や進路希望を聞いた後、池谷先生が言ったように、「じゃあ〇〇大学だね。じゃあ偏差値を〇〇くらい上げないとね」みたいなアドバイスをするじゃないですか。そうじゃなくて、生徒が「看護師になりたいです」と言ったら「じゃあ、そのためにどうしようか?」って一緒になって考えるとか。そうじゃないと、生徒自身のことなのに、本人が決めていく要素と機会があまりにも限れてしまうからね。
そうなってくると、自分の選択に注げる熱量が下がりますよね。結果的に「夢に向かって頑張る」だろうと「大学までは遊ぶ」だろうと、どちらにしても中途半端になってしまう。僕はそれが一番イヤだな。
「枠」の話を聞いて僕が真っ先に思い浮かんだのは、やはり「授業」です。眞鍋先生が提案していた『共同生活』では「終わりのない日常」という部分が重要でしたよね。その点、学校の授業って50分で経てば、必ず終わるから。分かりやすく枠だなって。
なるほど。「終わりがない」ってことが、枠を感じさせないためには必要かもね。
そうですね。授業も進路指導も、時間が経てば解放されることをみんなが知ってしまっているから、難しいのかもしれません。
つまり佐藤先生が言う枠を「なくす」のではなく「感じさせない」、つまり「終わりがないと思わせる」ことが鍵になるってことやね。授業自体に終わりがあるのは仕方ないけど、例えば授業時間以外をつかって自分のやりたいことに取り組むきっかけをつくることもできるかもしれない。今年、探究のプロジェクトをきっかけに外部のビジネスコンペに挑戦したペアがいたでしょ? あれはその好例。
そう思うんですが、ただ一方で「終わりがある」「枠がある」「ルールが決められている」というのは、生徒にとってメリットでもあるじゃないですか。
決められているからこそ、その時間だけ集中できたり、ちょっと嫌なことでも忍耐強く取り組んでみたりね。
そうそう。だから枠の扱いは難しいな……。
じゃあ例えば、リフレクションから始めてみたらどうですか? 探究の場合「リフレクションをしたら終わり」という流れがあるから、そこから壊してみるとか。
なるほど。リフレクションするタイミングも自由にさせれば、こちらが「リフレクションの時間」っていう枠を用意しなくてもよくなりますよね。
それなら終わりも感じさせませんよね。1冊のノートを渡しておいて、1日目に1ページ目を書き込んだところで、まだまだ白紙の状態のページ数が残されているわけだから。
その1冊を持ち歩いてもらって、いつ、どこでも、何を書き込んでもいいとしておくってことか。
いいですね。誰かの話している途中に「ちょっと待って」って書き込み始めるとか。そのリフレクションのあり方はしっくりくるな。
1年後に見返したすごく面白いと思うな。うん、それはぜひやってみたい。
なるほどね。じゃあ自分の思うままに使える1冊のノートを用意するっていうのは考えよう。ってな感じで、今日は特に後半、佐藤先生が出してくれた「枠」というテーマで盛り上がったね。
来期は「枠」という概念を取っ払うためのオリジナルの授業をつくっていきましょうよ。
その授業の名前は……?
もちろん……?
サトウ・ワン!!
やった! ありがとうございます!!