選択の価値は誰が決める?
昨年度の留学相談で出会った生徒たちが、イギリス、ハワイ、マレーシア、そして日本と、それぞれの出発地へ旅立とうとしている。彼らとの出会いはおよそ1年前。この1年間、決して緩やかではなかった道を、彼らはひたすらに進んできた。
1年前に出会った彼らは、紛れもなく、正真正銘、純度100%の高校生であった。
大学ではどんなことが出来るかと憧れに期待を膨らませ、模試の結果が悪かったと不安で押し潰されそうになり、思うように行動できない自分の不甲斐なさに悔しがり、そしてはじける笑顔で限りある最後の高校生活を楽しむ。
その傍らで、人知れず悩み、悩み、そして悩む。
彼らが彼らと向き合っている隣にそっとお邪魔している時間は、わたしにとっても貴重な経験であった。
しかしながら彼ら自身がベストだと思う選択は、必ずしも叶うわけではない。
彼らの選択の先には知らず知らずのうちに、しかし必然的に、彼らを取り巻く人々の選択が渦巻いている。彼らが悩みに悩んで選んだものも、適切なタイミングと、適量な熱意と、適当な理由がなければ、他人の選択を前に無力である。いや、実際には無力ではなく、無力のように感じてしまうものである。
自分の決意や選択は、他者からの影響を受け、そして与え、誰かの選択を変え得るパワーを持っている。たとえ言葉に出さずとも、人の決意はオーラのように、その人の空気や雰囲気となり、周りに伝染していく。それが本気で、本気であれば。
「わたし」を形作るもの
大人と子供の狭間でろうそくの火のようにゆらゆらと揺れ動く君たちは、まるで自分の選択などあってないように感じるだろう。今の自分の生活が、自分の選択の元に成り立っているなど到底思わないだろう。しかしある日、どこかの瞬間で、ふと迷う。自分はどこから来て、どこに向かっているのだろう。そして悩む。悩み、悩み、悩むのだ。
大人になった。そう思った瞬間があった。
大人になったと感じる瞬間は人それぞれの人生の中でいくつかあると思う。
お酒を飲めるようになった時。
欲しいものを我慢せず買えるようになった時。
一人でカフェに入った時。
わたしの場合は、自分の選択を人のせいにしなかった時、だった。
わたしが高校生だった時、ここだったらみんな喜ぶかな、と思った大学に進学した。それはわたしの選択ではなく他の者がわたしにそう選択させたとすら思っていた。
わたしは仕方なく選んだのだ。
家から通えるところにしてね、と言われたから。
大学はとりあえず行っときなさい、と言われたから。
お母さんに喜んでもらいたかったから。
だからあれは、わたしのものじゃない。
そんな時、母がわたしに言った言葉を今でも鮮明に覚えている。
「どんな環境、どういう状況であなたがそれを選んだにしろ、最終的にあなたが自分でそれを選んだことに変わりはない。人のせいにしないで」
その瞬間だった。
わたしが大人になったと感じた時。
自分の選択を、それはあなたのためなのだと、まるで優しい言葉をかけるように、他人に責任をなすりつけていた自分に気付いた時。
自分がダサい、と思った時。
「わたし」がその選択に至るまで、たくさんの人の影響があっただろう。たくさんの人が、「わたし」に望んだ結果もあっただろう。「わたし」が感じ取った、期待や失望があっただろう。だけどあの瞬間、あの時の、あの選択は、
間違いなく「わたし」がした、「わたし」だけの選択だったのだ。
「たくさんの人の影響を受けた、わたし」の。
選択をするという選択
何かを選ぶということは、同時に何かを捨てているということに変わりはない。しかし選ばなかった方を頭に浮かべ、その道を進んでいたらなぁと妄想することはあっても、選んだ人生を生きる中で、そちらを選んだことへの後悔を抱えながら生きていくことだけは出来るだけしたくないと思う。
さあ、いよいよ出発の時である。まだまだ海外進学という道が「ノーマル」とは言えないこの時代で、バカにされることもあるだろう。理解されないこともあるだろう。だけど、君たちは誰でもない自分自身で選択した、その未だ誰のものでもない道を、ひたすらに進めばいいと思う。自分の選択を、誰のせいにもせず、責任を持って、胸をはって進めば良いと思う。時には迷い、時には外(そ)れながらも、それもまた自分の選択と、胸をはって、進めばいい。
この1年間、海外や国内に限らず、自分とひたと向き合い、悩み、そして選び、その道へ進んだすべてのみんなへ。
いってらっしゃい!!
また会う日まで。