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更新されない日本のダンス教育を
変えるべく走り続けた10年。
私はずっと小学校の先生になりたくて、教職の免許を取得しました。しかし教育実習に行った先で、学級崩壊を目の当たりにします。子どもたちは素直であるが故に、とてもストレートに先生の悪口も言ってしまうもの。それが当時の私にはすごくショックでした。そのこともあって、大学卒業後は東京のダンスカンパニーでセミプロのようなカタチでダンスをしていました。しかし、この先どうしていくのか迷っていた時に、教育の中でダンスを続けてきた私は、お金を稼ぐ為にダンスをすることに違和感を感じてしまいます。そこでもう一度、もともと興味を持っていた教育の世界に目を向けることにしました。そもそも日本の学校でダンス教育はまったくアップデートされておらず、教えられているのは古めかしいものばかり。留学で行ったフランスでは最先端のダンスが教育に落とし込まれていたのに、なぜ日本ではそれができないのか。学校教育としてダンスをすることの意味や定義を改められないだろうか。そんな疑問を抱いていた矢先に、追手門学院から「新設される『表現コミュニケーションコース』で、ダンス専門の先生になってほしい」と誘われ、そこから10年が経ち、現在まで至りました。しかし残念なことに、表現コミュニケーションコースは3年前に募集をとめ、2024年の3月で幕を閉じます。正直に言って、人生かけて取り組んできたことなので、自分の子どもを失うくらい悲しい気持ちです。
学校で行うダンスには、生徒たちの中に溜まっているフラストレーションや不安、有り余っているエネルギーなどを爆発させたり、日常の中でうごめいている感情を無条件に吐き出したりできる場としての役割があります。実際に生徒たちは授業中に、大声を出したり、すごく早い動きをしたり、逆にしっとりとした曲を流すと、自分の中のネガティブな感情を味わっていたりとそれぞれに感情を爆発させていました。人間は他の動物と同じ生き物なので、本来は感情のままに動いたり叫んだりするものです。しかし大人になるにつれて、「ここではだまりなさい」とか「空気を読みなさい」といった制限を知り、それぞれに行き場のないもどかしさを感じながら生きています。そういったもののすべてを自由に出せるのがダンスです。世界にはお葬式で踊る民族もいるし、ダンスを用いて神と交信を図ろうとする人もいる。社交ダンスや日本の盆踊りも、集団意識を醸成したり、人との接続を強くしたりするというきちんとした意味や根拠があるので「話す前に、とりあえず踊りましょう」「それで互いのことを知り合いましょう」というのは、ある種、理にかなった考え方。だからダンスは本当にすごいものです。私は「踊っちゃえば変わるよ」っていうのを、本気で信じています。
学校教育としてダンスをすることの
意味や定義を改められないだろうか。
そんな疑問を抱いていた。
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信頼関係を築き、精神面をケア。
身体が発する情報を、敏感に。
『表現コミュニケーションコース』での日々は、教育に携われて、同時にクリエイションもできて、とても充実感がありました。私が伝えたいことがきちんと生徒たちに伝わっている実感があったし、自分で考えた企画もカタチになる。さらに公演も年に3回あって、外部のプロのダンサーや振付師の方々とのコラボだってできました。年間を通してずっと刺激的な日々を過ごせていたと思います。もちろんコースができて数年は「ただ遊んでるだけじゃないの?」という声も聞かれました。しかし保護者も生徒も、公演を見てもらうことで「感動した」「涙が出た」「全力のエネルギーには敵わない」など、ネガティブな印象はすべてリスペクトに変わっていった印象があります。現在では、「一般の科目より、表コミの授業がいちばん役に立つ」と言ってくださる保護者の方も増えました。ちなみに表コミの生徒のほとんどは、ダンスや演劇などの道に進むわけではなく、普通の大学の一般的な学部に進学します。勘違いされがちですが、私たちが教えてきたのは、ダンスや演劇ではなく、それを通して育まれるコミュニケーション。だから受験にも、その後の人生にも活きてくる学びだと思います。
生徒の一人ひとりを見ていると、本人は無意識でも、身体からいろいろな情報が発せられていることがよく分かります。私が大切にしているのは、生徒たちの目線や雰囲気から、その情報をできるだけ感じとるようにすること。「この子、朝、何かあったのかな?」と思って声をかけてみると「大丈夫」と言いつつ、身体は下を向いている、といったこともあります。「でも大丈夫じゃないんじゃない?」と聞くと、突然「わー」っと泣き出すこともありました。もちろん感情を口にしたくない生徒もいます。でもそういう子に限って、やはり身体が何かしらのサインを出しているもの。そして多くの場合、それを受け取ってほしいと心の中では願っている。例えば親からの承認をあまり受けていない子や、表面的にはツッパっている子どもたちは、言葉にはしないものの、本当は「気づいて!」と思っているケースが見られるので、身体からの情報を大切にしています。
そういう観察眼に何よりも重きを置いているという点では、私は「学問」を教える者としては不十分なのかもしれません。しかしどうしても「学力よりもケアすべき部分があるのでは?」と考えてしまいます。やはり多感な時期にいる彼らには、余計なストレスや不安を軽減させることで、集中して、真っ直ぐに「学び」に向かうための心と体を耕すことが必要不可欠。だからこの10年間、生徒みんなのメンタル的な部分や、個の存在にこそ目を向けながらやってきました。ただし時間をかけて信頼関係を築かないと、生徒たちの精神面に立ち入ってしまうことで、より傷付けてしまうこともあります。特に今の世の中は、家で親にきちんと目を向けてもらえていない子どもも多く、話を聞いてもらえず、逃げ場がなくなるという状況も少なくありません。昔はそこにおじいちゃんやおばあちゃんがいて、無駄話をしながら知恵をつけることができました。今の社会ではそれが難しくなってきた分、学校にその機能を求めている親御さんも多くいらっしゃいます。だからこそ、学校という場で「学力」だけでなく、人と関わるためのノウハウを学び、自分や相手を受け入れ合う経験を重ねる必要がある。そう感じています。